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日本で第九の演奏会が多いのは、昔、年末はボーナスシーズンでコンサートが満席になりやすく、人気のある第九が受けが良かったことから始まったといわれています。
貧乏な音楽家(今もそうですが)が、このオーケストラ+合唱+ソリストという大勢でお金を手に入れ、なんとか年を越せれるようになったそうです。
第九は、彼のメッセージが最も強く、美しく表現されています。
皆様も、彼の音楽と魂によって、感動と希望を得てはいかがでしょうか。
しかし、練習すればするほど、その音楽を考えれば考えるほど、
終わりのない迷路を進むような錯覚にとらわれます。
この、誰もが知っているほど有名で、
CD屋に行けば、たくさんの有名チェリストが録音しており、
様々な写譜から、学者方に研究されつくされた楽譜が出版されており、
専門書からエッセイまで多数書かれている作品。
・・・これほどの資料が揃っているのにも関わらず、
なぜ「これがバッハだ!」という結論が、未だ出ないのか。
これほど不思議なことはないと思います。
そもそも、この「バッハ」とは何なのでしょうか?
さまざまなバッハの研究、解釈、分析が行われていますが、
彼の音楽の本質は未だ謎のままだと思います。
先日、とある音楽学者のエッセイで、とても興味深いことが書いてありました。
《「バッハとは何か」を問うことは、少なくとも西洋音楽にとって本質的なものは何か、それを問うことにつながる。
つまり、西洋音楽を音楽として成り立たせている最も基本的なものが、バッハのうちには最も純粋な形で、最も豊かに存在しているのではないか。》
この文章は少々漠然と聞こえますが、すばらしく本質を見抜いていると思います。
演奏家、聴衆、歴史、宗教、そして作曲者バッハ自身をも超えて存在する、音楽の「何か」。
この「何か」をバッハの音楽の中で、ただ聴くことによって見えてくるのではないでしょうか。
また、カザルスは、バッハについて、このようなことを語っています。
《バッハの奇跡は他のいかなる芸術にも生じていない。
霊的な感激を人間の手近にある日常の行為の中に感じさせ、もっともはかない現実に永遠の翼を与える。
つまり神聖なものを人間化し、人間的なものを神聖化する。
これがバッハであり、その音楽はあらゆる時代を通じての最高の至純な瞬間である。》
このカザルスの言葉から、バッハから見える「何か」とは、「音楽の奇跡」だと、僕は思います。
音楽によって、人に霊的な感動を与える「何か」。
どんなに研究されても、とらえられない不思議な存在。
その「奇跡」が、皆の求めているバッハなのではないでしょうか?
かなり抽象的な考えだったかもしれませんでしたが、
この「音楽の奇跡」を求めて、頑張っていきたいと思います。
歌曲は歌・・・つまり言葉が重要だったのに対して、舞曲は踊りのための曲です。
しかし、僕達演奏家は、例え踊りがなくても、舞曲を演奏します。
「踊り手」がいない舞曲。
そこに、どのような意味があるのでしょうか。
面白いことに、歌曲と舞曲は、太古から現在まで伝えられている音楽です。
しかし、同じぐらいに古い音楽なのに、その歩んだ道のりは違います。
まず知っておいてもらいたいことに、歌は楽器による伴奏がなくても大丈夫ですが、踊りはそうはいきません。
楽器による伴奏がついて、初めて踊れるのです。
よって舞曲は、音楽史的に器楽演奏と同じ歩みをしていくのです。
歌曲の時にも書きましたが、ヨーロッパではバロックの時代まで、楽器での演奏は低く評価されていました。
特に中世では、作曲家は低く評価されている舞曲は書かず、歌曲の作曲に集中していました。
もちろん、この時代に舞曲がなかったわけではありません。
その当時、舞曲は吟遊詩人によって、即興的に演奏され、庶民によって踊られていました。
ルネサンスになると、中世の頃より舞曲は認められ始めました。
庶民で踊られていた踊りが、宮廷で取り入れられ、宮廷舞踏として洗礼されていきます。
この頃に、様々な踊りが開発されています。
そしてバロックになり、ちゃんと楽器演奏が認められるようになり、舞曲がとても高く評価されるようになります。
宮廷では盛んに踊られるようになり、作曲家は舞曲に対し、大いに創作意欲が掻き立てられるようになったのです。
さて、ここからです。
これだけ盛んになった舞曲を、ただの踊りの付属にしておくのはもったいない。
伴奏の領域を越えて、ちゃんとした芸術作品としての地位を確立しようと、作曲家は考えます。
それは楽器演奏だけによる、踊り手なしの作品を作ることになります。
こうして、様々な工夫が施され、「踊りのための音楽」から「聴くための音楽」へ発展していったのです。
このように舞曲は、それぞれの踊りの性格を保ちつつ、その作曲家の独自の世界を持つことが可能になったのです。
踊りの芸術と作曲家の芸術が融合してできた舞曲。
コンサートで、その独特の世界観を楽しんでいただければ嬉しいです。
前回の記事から、少々時間が空いてしまいましたが、
ちょっと今度の11月に町田で行うコンサートについて書きたいと思います。
このコンサートには2つのテーマがありまして、1つは歌曲、そしてもう1つは舞曲です。
今回は前半に演奏する歌曲について、書かせていただきます。
歌曲とは、当たり前のことですが、「歌のための曲」です。
歌・・・つまり、言葉を使う音楽です。
歌手は、その言葉にメロディーを付けて、表現力を高めます。
しかし、僕たち楽器を演奏する者は、「言葉」を使うことができません。
楽器はメロディーを奏でても、「喋る」ことが出来ないからです。
言葉を使うことが出来ない楽器が、歌を弾くということに、どのような意味があるのでしょうか?
ここで少し音楽史の話を。
17世紀頃までヨーロッパでは、楽器による演奏は、「喋ることのできない」という理由から、劣った音楽として扱われていました。
それまで音楽は、はるか古代から「信仰の言葉」また「詩」と一緒に作られてきた芸術でした。
よって、音楽で一番重要だったのは「言葉」だったのです。
それから、18世紀頃、バロック、古典の時代になって、ようやく楽器の演奏の存在意義が認められます。
面白いことに、17世紀までの考えとはかなり変わります。
それは「感情とは言葉で明確に表現できるものではない。」というものでした。
つまり、器楽演奏は「言葉が持ってしても表せないもの」が表せれる。
それまで欠点として思われてたのを、逆に長所として考えられるようになったのです。
このように「言葉を超えた歌」として、楽器でも歌曲が弾かれるようになったのです。
今までなんとなく聴いていた歌の演奏が、こうして考えてみると、また違う世界が見えるような気がして、面白いですね。
今回、さまざまな歌の世界を表現できるプログラムにしたいと考えています。
実際の歌曲から、最初から楽器のために書かれた歌、民謡、オペラのテーマからの曲・・・などなど。
一人でも多くの人に楽しんでもらえるように頑張りたいと思っています。
舞曲の話はまた今度。
第10回イタリア・アルジェント国際コンクール第2位入賞。第3回ポーランド・ドホミレツキ国際ソロチェロコンクールセミファイナリスト。
サイトウキネン「若い人のための室内楽勉強会」、小澤征爾音楽塾などに参加。ドイツ・コレルリ室内オーケストラと共演。ドイツ・ディプロム及びドイツ国家演奏家資格取得。
これまでにチェロを毛利伯郎、マルクス・ワーグナー、アレクサンドラ・ミュラー、マルクス・ニコシュに師事。
ダヴィド・ゲリンガス、トゥルス・スヴァーネ、マーティン・ルーアのマスタークラスを受講。
室内楽をリディア・ドゥブルスカヤ、マルクス・ベッカー、クシシトフ・ヴェグジン、パスカル・ドヴァイヨン、ハイメ・ミュラー、エカルト・ルンゲに師事。
2009年、日本に帰国。
2010年から名古屋フィルハーモニー交響楽団チェロ奏者。
<演奏会情報>
チケットのお問い合わせは
violoncellostory@yahoo.co.jpまで
2011.3.23.18:45
名古屋フランス音楽研究会特別公演「ピアノソロと室内楽の夕べ」
ピアノ:カザボン田島三保子、竹中勇記彦 ヴァイオリン:竹田千波 ヴィオラ:中村暢宏
曲目:ソロ作品、フォーレのピアノ四重奏曲
前売:3000円
当日:3500円
2011.4.2.19:00
「西風満紀子の音楽」
東京・門仲天井ホール
ギター:山田岳 ピアノ:伊藤憲孝 他
曲目:ギターとピアノとチェロのためのtri 他
前売:2000円
当日:2500円
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